「この矢よ当たれ」
山岸凉子の漫画『日出処の天子』に次のような1シーンがある。
賭弓(のりゆみ)の儀式で、大王(崇峻天皇)が出御するなか、臣下たちがおのおの弓矢の腕前を披露する。射る前に何らかの願いごとを口にするのが賭弓のしきたりである。「天下国家の安泰を祈して」「平安と豊穣を祈って」等々の穏健な願掛けが続いたのち、意地悪い大王の挑発を受けて主人公・厩戸王子が賭弓の場に臨む。弓を射る前、王子が発したのは次の言葉だった。
「これより先の我が望みすべてかなうなら この矢よ当たれ!」
矢は見事に的の最中心部を貫く。王子の英傑ぶりが発揮された鬼気迫るシーンだが、ここで物語の本筋と関係なく注目したいのは、弓を射る前に発せられたパフォーマティブな言葉のもつ効力のほうだ。
王子は「矢が当たれば、これより先の我が望みすべてかなえ」と言ったのではない。矢が当たる(A)→望みが叶う(B)という因果関係であれば、ほかの臣下たちが則った願掛けのフォーマットとさして変わりはなかった。しかし、これが逆転して(B)→(A)の語順になると、時間軸は錯綜し、発語のパフォーマティヴィティはたちまち一変する。(B)はまだ実現していない未来の出来事なのだから、(A)の前提には成り得ない。(B)を条件として(A)に帰結する、という因果関係が成立しなくなるのだ。
「これより先の我が望みすべてかなうなら この矢よ当たれ!」。一射の行方に全願望の全実現を賭けるという意味で、これは未来を担保にした一世一代の大博打である。極端な話、矢さえ当たれば、あとは願望即成就の無双状態が永続的に自動運転する。一射のチャンスを最大限拡張し、願掛けの効力を無限化する狡猾な手法は、ある種のチートとさえ呼べるかもしれない。
「すべて」の語が包摂する範囲は曖昧であるため、願掛けの効力が及ぶ範囲も恣意的なものとなる。しかし同時にこの曖昧さは、当の願掛けの時点では「全願望」の内容が出揃ってはいないことを暗に示している。実際、物語のなかで厩戸王子は、矢を射ったあとに大王に「我が望みとはなんだ。漠然としすぎているではないか」と問われ、「その漠然とした望みそのものすべての事でございます。これからその望みをゆっくりと考えさせていただきます」と当意即妙に返答していた。
王子の本命の願いとは何だったのか。一聴すると、願掛けの力点が置かれているのは、「我が望み」が「すべてかなう」ことであるような印象を受ける。しかし、矢を射る時点で当の本人すらも「我が望み」の内実を自覚していないのなら、最大限の言霊を込めるべきは「矢よ当たれ」のほうだろう。当たりかはずれか。その結果に曖昧さは微塵もなく、直近の未来に白黒がはっきりする。あとは矢は必ず的に当たると確信をもって、即物的事象の実現にただ賭ければよかった。
だから王子の賭弓は、願掛けよりもむしろ宣言に近い類のものであったのかもしれない。願掛けも宣言も未来への投企という点においては性質を同じくするが、宣言には「ほかならぬ発話主体がそれを実行する」ことへの強い意志が宿る。矢が的に当たる結果は彼にとっては必然であり、このとき事前の宣言は限りなく予言に接近している。矢は言葉であり、言葉は矢である。矢=言葉という比喩をさらに突き詰め、より言語というメディウムの問題に純化するならば、願掛けの文言を以下のように置き換えることも可能だろう。すなわち、「これより先の我が予言すべて当たるなら、この予言よ当たれ!」。
(ところで、言葉が当たる、とはどういうことだろう。複数の効力が考えられる。言ったことが実現すること、願いがかなうこと、予言通りの出来事が起こること、多くの人に熱狂的に受け入れられること、商品のように世の中に流通してヒットすること、メッセージの内容が思いもかけぬ遠くの誰かに届くこと……)。
国の平安や作物の豊穣を願った大王やほかの臣下たちと違って、すべてを自分の思い通りに操らんとする王子の願いはエゴイズムの極致である。公に分配・還元される富ではなく、自分ただひとりの欲望を、訳も分からぬままに何よりも最優先させているのだから(私の願望が私のコントロールを超えて嵐のように暴れている)。しかしこれは、言葉(予言)を放った主体がおのれにかけた呪いとも言えるのではないのか。「すべて」の語が駆動させる底無しの呪い。王子もまた、大王やほかの臣下たちと同様、願掛けの儀式のフォーマットに宿る呪術性から逃れられていない。
そのフォーマットがすでに呪術性に侵され、あれやこれやの願望で溢れ返っているならば、呪いの効力を解除する作業はそう容易くは進められないだろう。矢を意図的にはずしたところで儀式の呪術性そのものにはダメージを与えられはしない(はなから儀式に参加しない、という選択肢もあるだろうけれど)。
他方、この世の中には、言葉の呪力を解除する作業、願望即成就のがんじがらめの因果関係に抗する試みもおそらく存在する。たとえばそれは、「すべて」とは真逆の願いに照準を絞り、ただ「弓よしなれ!」とだけ唱えるような、無意味にも映る振る舞いのことを指す。このとき言葉は最小へと縮減し、弓を引く行為とまごうことなき一致を果たし、その効力を消尽させるだろう。
矢が的に当たるどころか飛ぶことすら願わない、願掛けに非ざる別種の話法。ある意味では、そうしたものを模索することが詩や芸術の領分にも思われるのだが、はたしてどうか。
※本稿は「蜘蛛と箒通信」にも掲載https://note.com/kumotohouki_rg/n/ncbd226c1c63a