詩人の老い支度―岩佐なを『パンと、』についての粗描
2015年は、川田絢音の『雁の世』と岩佐なをの『パンと、』に感銘を受けた。2冊ともベテラン詩人による思潮社刊行の詩集である(川田は1940年生まれ、岩佐は1954年生まれ)。
川田についてはまた別の機会に譲るとして、今回は岩佐なをの『パンと、』についての考察をラフに記しておきたい。
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所詮代用食と言われたむかし。もう米だけにかたよりますまい。
パンを齧って、詩を想う。詩を齧って、パンを想う。9つのパンをめぐる幻影、その他。
まず、本の帯にあるこの惹句で心を掴まれてしまう(書いたのは編集者かもしれないが、それにしても「岩佐なを的」な文言である)。前半はパンをめぐる9篇、後半はパンとは無関係の自由な着想による18篇がつづく。全篇パン尽くしでないのが少々残念だが、死の影がちらつく日常をユーモアたっぷりに描出するスタイルは一貫しており、詩集としての体裁がちぐはぐな印象はまったくない。
『パンと、』という詩集タイトルもシンプルながらに目を引く。『パンと、』のあとには何がつづくのか。「パンと私」「パンと日常」「パンと詩」、あるいは「パンと死」。『パンと、』の「と」のあとに付けられた読点はいかにも尻切れトンボで、後ろにつづくはずの語句が不在の印象を強めている。この空席には何が召喚されても不思議ではない。そもそも詩というものは、何もない場所に遠くの何かを呼び寄せる力を備えていたはずではなかったか。『パンと、』はそのような詩の力を再認識させてくれる詩集であり、派手さはないが、岩佐の異界に対する感応力が遺憾なく発揮された作品と言えるだろう。ごはん派も黙ってパン派に鞍替えするしかない、前代未聞の「パン詩」がこうして幕明けを告げる。
パンとはいっても、ブリオッシュだのカンパーニュだのといった、名前からしてお洒落で垢抜けたパンなどは本書にはひとつも登場しない。詩集の目次には、「食パン」「コロネ」「甘食」「クリームパン」等々、商店街にある家族経営のパン屋で売られているような、愛らしくも郷愁を誘う昔ながらのパンたちの名前が詩のタイトルとして並んでいる。なかには「Mパン」「Aパン」のように、パンの名前を一部伏せ字にしたタイトルもある。こうしたベタに「いやらしい」伏せ字の操作も含め、岩佐のパンの愛で方はなんとも官能的だ。たとえば、「甘食」という詩には「食べもので遊んではいけないから想像だけ」という一行があるが、はたして食べ物で遊ぶことと想像だけで遊ぶことのどちらがより背徳的だろうか。言うまでもなく、詩は「想像だけで遊ぶ」技術をもっとも先鋭化させた表現形式であり、一見すると無邪気に映るその営みの背面には、直接対象に触れず対象を弄ぶような不埒な動機がある。現実に何も引き起こさないという意味では無害、それでいて、存在の根源を歪めるほどに熾烈。こうした詩の二面性を、岩佐は通俗性の仮面を被りながらも十分に心得ているかのようなのだ。
詩人は朝の食卓に並ぶパンや公園のベンチで食すパンのもとに、様々な隠喩を手繰り寄せる。童心に帰るようなユーモアたっぷりの連想力によって、コロネは巻貝、メロンパンは満月や亀、そしてクリームパンは「偉大な救いの掌」や「不格好なグラブ」へと変身する。視覚的な類似に基づいた詩句から詩句へのホッピング。こうした隠喩は岩佐の詩に一定のポピュラリティを与え、「現代詩は難解」といったイメージを抱いている読者にも「親しみやすい」という印象を与える。むろん、ポピュラリティは読者に異界への敷居をまたがせるための一種の囮であり、この敷居をまたぐと岩佐作品の癖の強さも味わわされることになるのだが。
視覚的類似に基づく連想はベタといえばベタなのだが、ベタをベタに引き受けてなお遊びをやめないのが岩佐の詩の世界である。イメージの連鎖はとどまることを知らず、時間軸を遡ってパンをめぐる少年期の記憶やパンのイメージが携える歴史にまで及んでいく。他方、とめどなくずるずるつづく連鎖が突然の不意打ちで断ち切られることもあるのだから、油断は禁物だ。
Aパンはすでにアイドルであり
ヒーローであった
また生まれた経緯や育ち方も
多くの人に語られ記され
かるく仰ぎ見るほどの歴史をもっている
だから
いまさら
あつかいにくい
(「Aパン」)
Aパン、すなわちアンパンの名のもとに呼び寄せられるのは、パンの発祥にまつわる諸説であったり、国民的人気アニメの主人公(ヒーロー)であったりするのだが、その存在にはあまりにも長大かつ複雑に分岐した歴史がまとわりついているので、「あつかいにくい」と断じられる。しかも、一息で吐き出されるべきセンテンスが「だから/いまさら/あつかいにくい」とわざわざ三行に渡って分割されることにより、Aパンという詩語のあつかいにくさが次行への先送りというかたちで示されている。「アンパン」そのものだとあまりにもあつかいにくいから、その厄介さを鎮めるため、「Aパン」という一部伏せ字の詩語に変換しているのだとも考えられる。
もてあまされるのはパン=詩語ばかりではない。
おはよう。
雀ちゅんちゅく
朝も忙しくない
食パンを焼かずに皿にのせ
白い部分にジャムでかく
なにを。
かおを。
だれの。
くまさん。
そういう時間ができたことを喜ぶ
しかし(寒めの予知)
とおくてちかい病院では
心身が前後にぶれて
おぼつかないのである
だれの。
鏡で顔なじみの
自分の。(あちゃー)
(「食パン」)
簡単に言うけれど諦めるって難しいこと
もうなにがおきてもおかしくない
とし
もうなにがおこってもおかしくない
からだ、こころ
なにがの「なに」ってなに
ちと、こわい
(「クリームパン」)
素朴な読みではあるが、ここでの詩的主体は岩佐本人であると仮定して詩の背景を邪推してみたい。還暦を超えた詩人はおそらく既に退職しており、朝食の食パンにジャムで絵を描くくらいには時間に余裕のある日々を送っているようだ。ただし、老年期手前の心身は歳相応に色々と不調をきたしていて、病院が「とおくてちかい」。字義通りにとらえようとすると「とおくてちかい」というのは矛盾しているのだが、詳しい補足が前後にあるわけでもないので、この一文の意味はいかようにも解釈できる。ひとつに考えられるのは、詩人のいる場所(たとえば自宅)から病院までの距離が体調によって遠く感じられたり近く感じられたりする、という意味。要は主観の問題である。もうひとつは、「トイレが近い」などの文に使われる「近い」が頻度をあらわしているのと同じ用法で、距離的には遠いのだが何度も病院に通わなければいけない、という意味。病院という場所が嫌でも日常の一部になったことを意味する。
詩語の背景に物語的なエピソードを見出すのは無粋な読みかもしれない。いずれにせよ詩人の体調はあまり思わしくないらしく、加齢によって変化した身体感覚がふらふらと定まらず、コントロールが難しくなってきた状況が推測される。また、食パンに描かれた「くまさん」のかおと、鏡に映った自分の顔が呼応しているのは言うまでもないが、括弧で補足された(あちゃー)という嘆息から浮かび上がるのは、「顔なじみ」のはずの自分の顔に何らかの落差をおぼえ、あえて戯画的に嘆いてみせる詩人の姿である。自己像と現実の身体の乖離、そしてその乖離を諧謔でいなそうとする詩人なりの「身の振り方」がここから窺えるのではないか。
「クリームパン」で言えば、「もうなにがおきてもおかしくない/とし/もうなにがおこってもおかしくない/からだ、こころ」の部分。このとき「とし」や「からだ」「こころ」は改行によって、「なにがおきてもおかしくない」と予期する語り手からはみ出している。もてあまされた「からだ」や「こころ」が名詞として単独化しているのだ。
一方で「なにがおこってもおかしくない」根拠は示されず、「なにがの「なに」ってなに」という語句の繰り返しによってベタつきばかりが増す。平仮名の多用も執拗であり、な行の発音のもたつきも相俟って、読み手としては泥沼に足をとられた気分になる。二行目の「もうなにがおきてもおかしくない」と四行目の「もうなにがおこってもおかしくない」の、わずかな語形変化による畳み掛けも効果的である。意味としてはほとんど同義だが、言葉の響きとしてとらえたとき、「おきても」から「おこっても」への展開は、過去形である「(既に)おこった」へと転ずる可能性を示唆するからだ。もしかしたらすでになにかがおこっているのかもしれない、そんな怖さがひたひたと迫ってくる。むろん、ここには「起こった」と「怒った」をかけたダブルミーニングも読み取れるわけだが、「怒る」のは詩人の意識だけではコントロールのきかない、叛乱のリスクを抱えた身体の各部と見るべきだろう。
ここで一度まとめておこう。ひとことで言えば『パンと、』は老い支度の詩である。そして詩人は、理性や直観以上に、身体感覚によって自身に忍び寄る死の影を察知しているようなのだ。
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身体感覚といえば、『パンと、』には触覚に訴える詩句が随所に散りばめられている。たとえば、詩人の目は事物の付着物に敏感だ。転がっている石に微量に付いたコケやカビ、メロンパンの表面に散らされたグラニュー糖、カレーパンの衣となるパン粉等々。加えて、菌をやたらと気にする描写も本書には頻出する。
ベタついた感覚を喚起する要素を多く拾い上げているのは決して偶然ではないはずだ。一方、カレーパンを主題とした「Cパン」では、「指が油で汚れるのが御イヤなら/紙をあてて持てばいいし」というふうに、カレーパンの油によるベタつきを紙によって遮断し、カサカサした感触へと巧みに転調している。コロネをひそませた紙袋は公園の枯葉と呼応してカサカサ感を助長し(「コロネ」)、カンパンを乾燥した路上で踏みにじる行為は墓場や埋葬のイメージと連結する(「カンパン」)。ベタベタからカサカサへ、あるいはカサカサからベタベタへ。真逆にあるはずの触感の往還は、瑞々しいものと乾いているもの、若さと老い、生と死、ひいては此岸と彼岸の往還とも言い換えられよう。そして『パンと、』の世界においては、生と死のあいだには距離らしい距離はなく、何気ない日常の出来事のなかでほとんど混じり合っているのである。
前半のパン詩9篇を締める最後の詩「ざんぱん」に到っては、もはや主題はパンではない。「ざんぱん」は漢字で書けば「残飯」のはずだが、「残パン」と書いても構わないものなのかもしれない。すなわちパンの残像、パンの亡霊。パン詩の締めくくりにパンの亡霊があらわれるとは、十分に起こり得る展開ではないか。
ざんぱんです、と名告ると
相手は大方表情をくもらせた
とざんぱんのゆうれいが零していた
しかし縁をぷっつり切られるかというと
そうではないらしい
(「ざんぱん」)
どうやら生と死の世界はそんなに簡単に分離することは出来ないようだ。異界と交信する詩人の感応力がある限り、死は日常のどんな場面にも出現して、その不吉な姿によって生者の顔をくもらせるのである。
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ところで、岩佐は銅版画を手掛ける版画家でもある。『パンと、』にはパンと紙が接触するイメージが何度か登場するが(ティッシュペーパー代わりにいちまいの紙をパンの下に敷く「Mパン」、カレーパンの油で指が汚れないように紙でくるむことをすすめる「Cパン」)、これを版画的なイメージといったら穿ち過ぎになるだろうか。版画は原版に彫られた像を紙に転写するという制作プロセスを経るが、パンはパンの像を紙に残したりはしないのだろうか。「メロンパン」の末尾の数行を引用しよう。
いちまいのもはや少し汚れっちまった紙との
最期の接触を惜しみ
消えた
さようなら
亀の綽名は
メロンパン
(「メロンパン」)
パンはみずからの残像を「汚れ」として少しばかり紙に転写するだけで、詩人に食べられてあっさりとなくなる。『パンと、』に収録されるいくつかのパン詩が、パンの最期、もしくはパンが食べられる場面をうたって終わっていることには注意が必要である。
たとえば、
丸いパンの正体は
たいてい円盤なのだよ
たべられます。
(「Aパン」)
「たべられます。」というのは「たべることができる」という可能態なのか、「(人に)たべられる」という受動態なのか。また、ここで省かれた主語は詩人に帰するものと見做すべきか、それともパンに帰するものと見るべきか。2つの意味を曖昧にぼやかしたまま、中断の感覚とともに詩はぷつりと閉じる。じつにあっけらかんとした、余韻など感じさせる隙もない大らかな終わりである。前提とすべきは、食べる誰かは必然的に食べられる何かと対になる、ということ。パンの消滅は詩の消滅であり、このときパンと詩人は主客未分化となってひとつに混じり合う。
絵を描くとき、最後のひと筆をどこで終わらせるのかというのが画家にとって重要な問題であるのと同様に、詩をどのように終えるのかという問題は詩人にとって永遠のテーマであるはずだ。詩集タイトル『パンと、』のあとになにがつづくのか、と私は最初に問うたが、やはり『パンと、』のあとにはなにもつづかないのかもしれない。そのように考えると、『パンと、』の“パン”が事物が消滅するときの破裂音のようにも思えてくる。とすると、読点の「、」はパンがはじけて飛び散った際の小さい破片だろうか。
パンも人も、いつかは消えてなくなる。詩人は自分の「からだ」と「こころ」が滅んだあとの世界に備え、言葉で遊び倒す不埒な態度で詩/死を鎮めながら、今日もどこかで言葉を手繰っているだろう。
※本稿は2016年に「En-Soph」に寄稿したテキストの転載である。転載にあたってテキストのタイトルを変更し、多少の加筆修正を加えた。