杉本真維子「他人の手鏡」について


杉本真維子の第二詩集『袖口の動物』(思潮社、2007)に「他人の手鏡」という詩が収録されている。さほど長くない詩だが、細部を読み込んでいくと、行から行の運びに理屈では辻褄の合わない「断層」が生じる。読後に消化できない不安を残すという意味では厄介な詩だが、「理解すること」を目的としなければ、詩の読み方を探るための素材として杉本作品ほどに手応えのある対象はないかもしれない。試みに「他人の手鏡」の分析・読解メモをここに残してみたい。



その女が電話をとってかがむと

なぜかわたしの、赤鉛筆が落ちる

机の下で、合わない視線が

ゆっくりと窓の外を赤くしていく


夕陽だった、

まざらない血のあいだで

煮え立つ新鮮ないのちが

わらい、おこり、歩行し

ひととして生きていること

シーッと動かない静寂がしかれ

もうすこし他人で

永遠に他人のまま

わたしはなにかに

操られていたいのだ


 あ、その白い手袋――

 イナイイナイバアと顔を隠した

 両手のすきまから

 夥しい他人がこぼれ落ちていく


盗み見るほどにひかりの

検診は過ぎて

あなたは手鏡をたたむように

小さな電話をたたむ


(杉本真維子「他人の手鏡」)



一行目と二行目。「その女」が電話をとってかがむ動作に「わたし」の赤鉛筆が落ちるという現象がついてきて、非情に「女」と名指された他人と「わたし」の間に不気味な因果関係が生まれている。「なぜか」という副詞が示すように、電話をとってかがむ動作と赤鉛筆が落ちる現象のあいだに因果性は希薄なはずだが、出だしのたった二行で「その女」と「わたし」の関係が強引に結ばれてしまっている(=関係妄想的な「因果」の捏造)。この場合、「なぜか」という副詞は「なぜであっても」というやや強引なニュアンスをともなった単語として読み替え可能かもしれない。つまり、本来なら特別な意味を伴わないはずの「その女」と「わたし」の関係が、「なぜか」という副詞において短絡(ショートカット)しているということだ。


三行目と四行目。「机の下」「窓の外」という、室内環境の指標となる言葉が対置的に登場する。描写の度合いは低いが、この二語だけで視線の上下と空間の内外を分かつ仕切りが言外に出現する。「その女」と「わたし」が居るのはオフィスのような場所なのだろうか。あるいは喫茶店や飲食店のような、全くの他人同士が一時のみ集まる雑居的な場なのだろうか。「テーブル」ではなく、より素っ気ないニュアンスの漂う「机」と書くからには、オフィスの可能性が高い、とひとまず推測をつけておく(「机」は事務机? 削ぎ落された描写が無機質な印象を惹起する)。

続いて、行間を埋めるように状況を補足的に見ていきたい。電話をとって身をかがめた「その女」も落ちた赤鉛筆を拾おうとした「わたし」も、その視線は下方に向けられたはずである。こうして詩世界の映像は室内空間の低い位置に視点を移動する。「その女」「わたし」とそれ以外の人間が上下に分断される構図と捉えてもよい。

しかし、二者の関係は「机の下」という(その他大勢の視線をまぬがれた)秘匿的かつ閉鎖的な結界のなかでも親密な段階に移行せず、むしろ「合わない視線」によってその非-関係性のほうこそを強調する。「その女」のかがんだ姿勢と赤鉛筆を拾おうとした「わたし」の体勢が噛み合っていないのだろうか。二者の居場所が意外と離れていて、「その女」の意識が「わたし」の獣のように獰猛なアンテナに気づいていないのだろうか。あるいは、二者の視線は一瞬合いそうになったのだが、特に言葉も交わされず会釈のような合図もなく、よそよそしい空気だけが流れて終わったのか。名前も呼ばれず冷酷に「その女」と名指された対象は、一瞬の共振めいた現象でわずかに「わたし」と擦れ違うも、どこまでも「他人」であることがここまでの三行で示される。


素朴な疑問が生じる。「その女」が電話をとってかがむ、とはどういう状況か。オフィス空間であれば机の上にある固定電話が鳴ったのを(そばに立っていた)「その女」が少し背を曲げて受話器をとった、と解釈できるが、「かがむ」というからには「しゃがむ」に近いくらいの体勢の変位があったのかもしれない。となると、固定電話でなく自分の携帯電話を取り出し、周囲の人に通話の声が響かないように机の陰に身を隠すようにして話し始めた、と読むのが妥当だろうか。場所が喫茶店などではなくオフィス空間であれば、固定電話でなく携帯電話で個人的な用事(私信?)をこっそり進める状況の意味も際立ってくる(そして、「わたし」だけが「その女」の人目を忍んだ私用の場面に注意を向けている様子も浮かぶ)。「電話」「かがむ」の単語にそれ以上の情報がないためいまひとつはっきりとした像を結ばないが、「電話」の単語は最終行にも登場するので、ひとまず解釈を保留して続きを読んでみる。


四行目。「ゆっくりと窓の外を赤くしていく」という一行が引き起こす、閉鎖的空間(机の下)から開かれた場(窓の外)への突然のカメラアイの転換。それまで「わたし」視点で進行していた世界記述が、ここで一挙に変転する。三行目から四行目への遷移を素朴に読めば「ゆっくりと窓の外を赤くしていく」の主語にあたるのは「合わない視線」だが、やはりここは改行(=断層)が入るのが重要で、「その女」と「わたし」のあいだに強引に結ばれた関係性、もしくは非-関係性が「ゆっくりと窓の外を赤くしていく」展延性の何かへと置き換わる(もしくは関係が虚空のような拡がりのなかに散逸していく)象徴的な作用にこそ焦点を当てるべきだろう(たとえばこのとき、二者の存在が交差する可能性は、二者の身体が存在しない場所――「赤」に満たされる「窓の外」の拡がり――によって否定されたとは考えられないだろうか)。


「窓の外」の不吉な「赤」が、すでに登場していた「赤鉛筆」を先触れとして、続く二連目の「夕陽」や「まざらない血」のイメージへと転移していくのは言うまでもない。「赤」はその後の「煮え立つ新鮮ないのち」へと結ばれてゆく色彩であり、生命のメタファーでありながら、杉本作品ならではの熾烈さと暴力性が託された色彩でもある。しかし、「赤鉛筆」~「夕陽」~「血」という一連のイメージが色彩の媒介によって滑らかに繋がっているかと言えばそうとは言い切れず、やはりそこにはそれぞれのイメージ固有の「質の違い」を「断層」としてみとめなければならない。たとえば、赤鉛筆が文章の添削に使われる筆記具であることを鑑みれば、「書かれた言葉を修正し、添削を加え、ときには傍線やバツを入れて否定・抹消する」役割を担うその赤色が、詩人にとって、ひいては詩そのものにとってどれほど重要であるかを視野に入れる必要がある(「わたし」は赤鉛筆を使って何をしていたのだろう? ゲラの手直し?)。他方、夕陽の赤は一日のうちで限られた時刻のみ燃え立つ一過性の色彩だ(夕陽を「点火した詩性の象徴」と読み替えることも不可能ではないだろう)。「ゆっくりと窓の外を赤くしていく」という一文が「今まさに生起する現象」を示しているのに対し、空白の一行を挟んだ続く一文「夕陽だった、」が、読点によって決然と現象の流れを断ち切ってしまうところにも、抒情をゆるさず詩語を厳しく詰めていく詩人の身体感覚を感じる。

「まざらない血のあいだ」という言い回しに到ってはかなり不気味だ。そもそも「まざらない血」とは何か。わたしと他人、それぞれの体内をめぐる血がまざらないのは当然であって、けれども「まざらない」などという否定形をわざわざ用いられると、まざらないはずのふたりの血がまじってしまう怖さがむしろ呼び起こされる。「まざらない」「あいだ」という間隙を示す語に「血」が滲みていく、といったところだろうか。「血」はまざらなくとも、詩人のちょっとした言葉運びによって「語」がまざることは十分に起こりうるのだ。


二連目の六行目。「シーッと動かない静寂がしかれ」。この一文のなかで何が起こっているのか。「動かない静寂」という語のなかには「動」と「静」の文字があり、二つの相反する状態がピンと張り詰めて空間を凝固させるかのようだ。「シーッ」というのが擬態語ではなく擬声語であれば、口の前に人差し指を立てて「静かに」と相手のおしゃべりの口を封じるノンバーバルのジェスチャーがただちに連想される。そのジェスチャーを起点に、「シーッ」という音がカーペットのようにしかれ(「敷かれ」)、「わたし」から「あの女」の足元へと波及し、「動かない静寂」となって二者の距離を床面から固定する。「シーッ」という擬声語には口元から対象に向かってまっすぐ伸びていく線状の音声イメージも感じられる(「線状」というより「尖状」か)。「しかれ」が「敷かれ」でなく平仮名の「し」にひらかれているのは、「シーッ」という音に引きずられて起こった音韻上の操作かもしれない(サ行の摩擦音はこの一文のなかで高い効果を上げていて、擦り傷のような質感を詩語に与えている)。加えて、立てた人差し指が真一文字に結ばれた唇に対して十字を描き、「言葉を発すること」をかたく禁じる視覚的なサインとなる様子も映像として浮かんでくる。おそらく「わたし」と「あの女」のあいだに言葉は交わされなかったのだが、代わりに言葉未満の呪術的な何かが二者を縛っているのではないか。この一文からはそんな不穏な状況が読み取れるように思える。


続いて二連目の七行目と八行目。「もうすこし他人で/永遠に他人のまま」。前行では他人同士である「わたし」と「その女」の距離感は「もうすこし」という「度合い」によって計測されている。対して、後行では「永遠に他人のまま」という断言的表現が「度合い」の曖昧さを廃絶している。「言い直し」という感じともまた違う。前行にほのかに残る抒情性が後行によって厳しく一掃されているのだ。やはりここで意識すべきは行と行のあいだの「断層」であって、わざわざ「少し」を「すこし」にひらいて同じ字数に揃えられたこの二行はセットで捉えなければならない。

「他人」という単語はこの後の一字下げの連にも登場する。「夥しい他人がこぼれ落ちていく」の一文だが、ここでの「夥しい」をどう読むかで一字下げの連全体のイメージが大きく変わってきそうだ。「夥しい(数の)他人」ではなく「夥しい他人」。「夥しい」という形容詞には「①数や量が非常に多い」「②程度がはなはだしい。ひどい。激しい」「③非常に盛んである」という三通りの意味があるが、「両手のすきまから」(=指のまたから)「こぼれ落ちていく」(=輪郭で区切れないものが溢れてくる)というからには、やはりそれは数量的なものである(①)と同時に数量に比せられないもの(②)なのだろう。「夥しい」という形容詞はこのとき「他人」という語に掛かりながら不安定な足場でぐらぐらと揺れるのだが、どちらかといえば「②程度がはなはだしい。ひどい。激しい」という意味合いに力点が置かれていて、ここから「耐え難いまでに他人が他人である」という語調を受け取ることができるのではないか(指のすきまから引き裂かれた複数の他者が液状に溢れ出すイメージも捨て切れないが)。

「他人」という単語と比較して考えたいのは二連目の五行目に登場する「ひと」だ。平仮名であらわされた「ひと」は社会的存在としての「人」とは明らかに区別して書かれているはずで、直感的に受け取るならばそれは「人」の皮をかぶって「わらい、おこり、歩行」するグロテスクな生き物である(詩の主体であり世界の観察者である「わたし」は、「人」の皮を剥いで「ひと」へとひらくほどの冷徹な目をもっている)。「ひと」が詩の前半でたった一度しか登場しないということは、「わたし」にとっては「人」の仮面をかぶって何食わぬ顔で社会生活を送ろうとする「ひと」よりも、覆い隠された顔からなお漏れ出てくる「他人」のほうが問題であり、より切実に、本当らしく感じられる対象ということかもしれない。


最終連。「盗み見るほどにひかりの/検診は過ぎて/あなたは手鏡をたたむように/小さな電話をたたむ」。「盗み見る」という動詞の主語はもはや明示されないが、相手に気づかれることなく対象を観察する「わたし」の身体がここで再帰的に浮上する。詩のはじめに出現する「合わない視線」と照らし合わせれば、「わたし」から「その女」の場所までの距離も推し量ることができるだろう。そして、ここにきてようやく指示代名詞であらわされていた「その女」は、二人称代名詞による「あなた」として像を結ぶ。また、杉本真維子の作品に限らず「ひかり」は現代詩によく頻出するモチーフだが、それが「盗み見る」という、「ひかり」にはあまり似つかわしくない行為に結びつくと、「盗み見」のうしろめたさが後退して「わたし」の視線の透徹さが際立つ(「盗み見」が「ひかり」となって対象をこじあける、といった風に)。

最後に登場する「手鏡」と「電話」。「たたむ」と言うからには、やはり「電話」は二つ折りタイプの携帯電話なのだろう。コンパクトミラーと思われる「手鏡」と「電話」は形態的な類似によって結ばれ、「たたむ」という動詞によって不可視の閉域を暗示する(手鏡も電話も、他人が横から覗き込んだり滑り込んだりすることは基本的には出来ない――ゆえに「閉じている」)。しかし、この二つの小道具には差異もある。電話が他所にいる誰かとコミュニケートするための通信機器であるのに対し、手鏡は自己の反映ばかりを映し出す孤独の象徴としての意匠である。要は閉域の向こうにあるのが「他人か自己か」の差に過ぎないのだが、手鏡との相似形が言明されると、電話は外界への回路を失い、手鏡同様の自己像の反映物として孤独に閉じていくのだ。

突飛な想像でしかないが、二つの小道具の閉域は「机の下」に通じているのかもしれないし、もしかしたら「窓の外」へと「わたし」や「あなた」を放擲して虚無へと還してしまう通路なのかもしれない。「わたし」と「他人」の断層をはらんだ擦れ違い、隔絶のなかで不意に生起した交接の予感、私秘的な空間で垣間見られた「ひと」ではない「他人」の相貌。この詩のライトモチーフがなんとなく見えてきたような気もするが、最後まで読んでもつかみがたい何かが依然として残る。詩を状況説明のように行間を補足して読むことの限界を感じる。書かれてないものを書かれてないままに読むための何らかのメソッドが必要なのかもしれない。


詩語解体。これは、詩を読みながら詩の読み方を疑うためのささやかな試みである。結論のない文章を書き連ねてしまったが、杉本真維子の詩については機会をあらためて読み直してみたい。



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